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映画「ノアー約束の舟」重大な問題点:AiGのサイトより

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** はじめに・・・ 翻訳に当たって **

 ハリウッド・パラマウント映画制作の長年の経験と、企画力や技術力などの高度の実力、そして莫大な経済力に支えられて、そういう意味では「優れた」この作品【ノア】を作り上げたのでしょう。人の先祖はもちろんアダムですが、さらに言うならば、現在生きている人間全ての先祖はノアであり、信仰の人として知られる聖書の偉大な人物「ノア」を取り上げて、その人物像を歪め、洪水の出来事を茶番の如くに取り扱い、そしてあろうことか全知全能の聖なる神の御姿まで全く異なる残酷な方として人々の前に映しだしたのです。

しかし、ノアや箱船などの言葉やその他聖書にある馴染み深い名前や場所などに親しみを覚えたクリスチャンたちは見てみようと思うでしょう。まして、クリスチャン以外の人々は、その壮大な舞台と絢爛たる仕様に魅せられて、嘘八百の映画が本当の聖書の記述だとまんまと騙されてしまうでしょう。

この映画の底にこびりついて人々を惑わすおぞましい本質が、どのようなものであるかをアンサーズ・イン・ジェネシス(AiG)が公式サイトで詳細に講評しているので、先に紹介したケン・ハム氏のブログに続けて、ここに日本語に訳出しました。見に行こうかと思う前に、聖書66巻を信じる信仰に堅く立っているAiGの批評を読んでみてください。英語を楽に読める方はAiGのサイトを訪れてください。昨年11月頃から色々とこの映画について批評を発表しています。

訳者注:ノアがこの映画を指している時には【ノア】と記述(原文ではイタリック体)

CRJ顧問 安藤和子翻訳


http://www.answersingenesis.org/articles/noah-movie/detailed-review

AiGの公式サイト(2014年3月29日)講評・・日本語訳

ノア映画:非聖書的な空想物語

「ノア映画:詳細な考察」

Tim Chaffey & Roger Patterson, AiG-U.S. on March 29, 2014

 木曜の夕方、アンサーズ・イン・ジェネシスの研究者のチームは、新しい【ノア】映画を見ました。この映画を見たミニストリー及びスタッフの信頼できる仲間たちの見解に基づくと、これ以上お金を使ってこの非聖書的映画を見ることには気が進みませんでした。でも、映画の市場に上映される以前にさえ、この映画を私たちがどのように考えるかということについて何百人という人々から問い合わせがありましたので、AiGの研究チームは映画を見てから見解を書く必要があると思いました。

それなら、映画が良いものか悪いものかを判断する前に、すべてのクリスチャンはこの映画を見なければならないということでしょうか? 決してそうではありません。「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。(箴言11章14節)」私たちはこの映画関して皆様の役に立てるように、この批評を提供しようとしていますが、すでに短い所見を最初にウェブ上で公表しました。私たちが推挙できない映画をそれでも見に行こうと考えるかも知れない人々に、賢明な助言を提供したいと思っているのです。

批判的考察に対する一般的反対への答え

映画に批判的な見解を示すといつでも、常に次のような反応があるのは避けきれませんので、まずそのことに触れておくのが重要であると思われます。

1.その映画を見てもいないのに、どうして批判できるのか?

ともあれ、私たちはすでにこの映画を見ましたし、AiGのスタッフメンバーは2~3ヶ月前に映画の一部を見ているので、この反論は今の場合には当てはまりません。しかしながら、映画が公開される以前に私たちはこの映画に批判的でした、というのは先に述べた人々を含め、すでにこの映画を見ていた信頼出来る人々と話し合ったからです。【キリストの最後の誘惑】のような冒涜的な映画の場合と同様に、極めて非聖書的であることが分かった映画を見に行く必要はないのです。

2.ハリウッドが聖書的な映画を制作するなどと何故期待するのか

ハリウッドが旧約聖書に高潔さと敬意を以て、聖書的視点でノアと箱船を取り扱うだろうとは、私たちは期待してはいませんでした。残念なことに、あるクリスチャン指導者たちはこの映画を支持して、映画制作者たちはこの聖書箇所を取り上げて良い仕事をしたと言い、見に行くようにと人々に勧めています。知識を持っているクリスチャンが何故このような見解を持ちうるのか、今この映画を見た後で私たちは理解に苦しみます。(この映画が聖書をねじ曲げている多くの箇所については下を見て下さい。)

3.ただの映画だから、目的は楽しむだけのことです

この世から離れて聖であるようにと、私たちは呼び出されているのです。神の子が何故、神の御言葉を逸脱した考えで心を満たしたいと望むのでしょうか? この場合、【ノア】は二三の小さなことを修正しても取り繕うことが出来ない程に異質のものになっており、多くの領域において、直接かつ明白に聖書とは真逆のことを教えているのです。クリスチャンがこのような類いの映画を見るのも見ないのも完全に自由である一方、私たちは時間や与えられている資源を賢明に用いるようにと神に召し出されているのです。さらに、ある信者たちは、私たちの頭脳を切り替えてこの映画を楽しむ機会になると示唆しています。この考えは旧約聖書の命令に反するものであり、全身全霊を尽くしてキリストの従順に従うようにと私たちは呼び出されているのです。

4.映画制作者は詩的許容を用いているに過ぎないことを理解しなければならない

聖書をテーマとした映画を作成する時に、適切に行われる場合には詩的許容にどんな問題も無いと私たちは思っています。実際、歴史的な出来事を描く時はいつでも詩的許容を使っているのです。例えば、創造博物館でノアを描くのに私たちは詩的許容を使い、そして、箱船との遭遇(訳者注:アメリカ合衆国ケンタッキー州北部グラント郡に建設が予定されているテーマパーク)に於いても同じことをしているのです。ノアがどのような顔つきであったか、彼が何を着ており、どのように話したかなどを私たちは知りません。相違点は、この映画制作者は詩的許容レベルを逸脱してしまい、多くの領域で明らかに御言葉に対立して、信仰深い義の人であるノアの性質を完全に変えてしまい、ノアが仮に自分自身の孫を虐殺しなければならないようになるとしても、最後の一人まで人間を抹殺するような気違いにしてしまったのです。 「パラマウントのノア:見境がなくなった詩的許容」 を見てくださると、この映画による詩的許容の乱用の詳細がより良く分かるでしょう。

5.この映画が提供する全ての福音の機会を考えましょう

この映画についてクリスチャンが人々と語り合う機会を映画が提供していることに疑問の余地はないでしょう。しかし、この映画について語って旧約聖書の真理に結びつけるには、実際多大の労力が必要です。この映画の「岩の人々」を聖書からどのように説明しますか? 映画の中で何故神はノアに話しかけないのでしょうか? 蛇の皮膚は本当に魔術的力を与えるのでしょうか? 余りにも間違いが多く、また聖書の真理が欠落しているので、この映画を見た人にしてあげられる唯一のことは、共に座って聖書を開き、頭の整理をしてあげることだけです。でも、これには多大の労力を要するのです。この映画を見ないようにと薦めておいて、それからノアの出来事の真実について教える方が、遙かに容易でしょう。

つまり、福音の機会を与えるような映画を無神論者が作るのを、もし私たちが期待しているなら、私たちは恐らく重要なことを忘れているのだろうと思われます。すなわち、例え助けとなる映画がないとしても、福音宣言の力(ローマ書1:16-17)とその福音を宣教する命令を忘れ果てているのでしょう。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ書1章:16-17節)

そのように、すでにこの映画を見てしまった人々にも語る機会はあるでしょうが、クリスチャンは恵みと真理の言葉で、神の御言葉の真理を積極的に大胆に語らなければなりません。

この映画は聖書的に正確か?

様々なクリスチャン指導者たちから聞いたことの一つは、この映画は聖書本文にむしろ忠実であるということです。実際、ハリウッドで働いている信者によって、様々な推薦文の付いた7分間ビデオが作成されました。その中で、【ノア】の共同作成者であるアリ・ハンデルは、「二つのことを同時に行うことは、とても重要なことでした。一つは、聖書本文に反することは一切しないこと、そして第二に、創世記に反しないで、出来るところでは可能な限り常識的な予想を破りたいと思ったのです。」

映画の共同制作者が言っているように、御言葉に反しないようにすることが、彼らにとって非常に重要なはずだったのです。では、この目標をどれ位達成したか見てみましょう。

アリ・ハンデルが聖書本文についてほとんど何も知らないか、あるいは映画制作に当たって意図的に嘘を付いたかどちらかです。どちらの意見であっても、この映画台本の高潔さに対して充分大きな疑問を呈しているのです。

聖書が伝えていることの偉大な主題を考えると、これら多くの問題点はむしろ些細な問題であると主張する方もおられるかも知れません。しかし、それは聖書に対する傲慢な態度を露見していると思われます。もし彼らが小さな点を正しくすることに意を用いることが出来なければ、大きな問題点を正確に取り扱えるとどうして信頼できるでしょう?(そして、実際出来ないのです。下をご覧下さい)。そのことを考えてください。彼らは話全体を変えないで、ハムを最年少に出来ましたし、ノアがカラスを放つことが出来たのです。また、適正な時期にレメクを死なせることが出来たのですし、ノアに愛すべきおじさんかお兄さんを与え、そしてトバル・カインとの争いが後に起こって殺されるという仕立ての映画に出来たのです。しかし、彼らはそうしませんでした。代わりに、映画制作者たちは、彼らの物語を全く変更しないで、神の言葉に直接刃向かったのであり、それは神の言葉に全然尊敬を払わなかったということを示しています。彼らは「聖書の言葉に逆らうことはどんなことでも」避けようという努力を傾けなかったのです。

この映画は主題に関して正確か?

数多くの広告と一緒に提示された断り書きには、以下のように述べられています。

この映画はノアの物語に基づいたものです。詩的許容内でという限界ではありますが、この映画の本質、価値、高潔さは、世界中の数百万人の人々の信仰にとって礎石になる物語であると信じます。聖書にあるノアの物語は、創世記に書かれています。

最後の一文は、もちろん確かに真実ですが、それ以外の記述はどうでしょうか? 聖書のノアに関する記述が土台になって映画が制作されてはいます。映画にはノア、箱船、洪水、そして他に聖書に書かれている何人かの名前が出て来ます。しかし、この映画は本当に、ノアに関して「本質、価値、高潔さの真実」を描いているでしょうか? 絶対にそうではありません

この映画はいくつかの重大な問題点を抱えています。一つには、ノアの人格が非常に面倒なのです。この映画では、重傷を負った1匹の動物の命を救うために、ノアは3人の人を平気で殺戮していることです。このハリウッドのノアには、動物の命は人の命より大切なのです。ノアは、ハムが助けようとした若い女性の命を本気で救おうとはしませんでした。さらに、ノアの義理の娘が女の子を出産しようとすると、「生まれたらその瞬間に、彼女を斬り殺す」とノアは言ってのけているのです。映画の後半部全体に亘って、「無垢なもの」(動物という意味) が洪水後の新しいエデンで平和に暮らせるように、取り憑かれたノアは人間を全滅させようとします。

このような話の全容が聖書のノアになぞらえることが出来るというのでしょうか? 創世記6章9節には「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と述べられています。彼は神がしなさいと仰せられたことは全て忠実に行ったのです(創世記6章22節)。神はノアに命じられました。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」(創世記7章1節)。エゼキエル書には、ノアは正しい人として認められており、同じ文脈でヨブとダニエルが並べて記されています(エゼキエル書14章14節、20節)。ペテロはノアを「義を説く人」と呼んでいます(Ⅱペテロ2章5節)。また、「信仰の栄誉殿堂」の章にもノアは書かれています。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル書11章7節)

もちろん、ノアは完全ではありませんでした。ノアはアダムの罪の性質を引き継いできていますから、もとより全生涯に於いて数え切れないほどの罪を犯しました。しかし、神は彼を正しい人、その時代に於いて責めるべきことの無い人であるとさえ言及されました。ノアは完全ではありませんでしたが、しかし、死にかかっているトカゲ・犬(訳者注;lizard-dog)を守るために3人の人を殺すような人ではありませんでした。洪水の後の一つのこととして、ノアが酔っ払って、その結果彼の息子ハムの恥ずかしい事件が起こりました。しかし、映画のノアが、聖書に描かれているノアを正確に描写していると一体誰に思えるでしょうか? 聖書のノアは映画に描写されているノアではありません。このようにして預言者について意図的に偽りを伝えるのは、神に対して、そして神が選ばれたしもべに対しての冒涜なのです。

そして、もっと大問題なのは、映画が神を偽って伝えていることです。まず、神は常に創造者として取り扱われていることです。もちろん、これは神を確認するのに適切な方法ですが、神をお呼びする唯一のお名前とするのは奇妙に思われます。映画では、神については全く描かれておらず、また自らお話しになっておられませんが、映画が描く神の御性質は冒涜です。例えば、神は常に遠くにおられます。箱船を建設するために一連の幻や夢を通してノアに断片的な指示をお与えになり、その後、何をしたら良いのかということは自分で解決するようにと置き去りにしてしまわれます。実際、洪水についてノアが受け取った「啓示」の一部は、メトシェラ(映画では魔法使いの医者)によって与えられた運命とも言うべき何かの影響を受けています。ところが、聖書が私たちに教えていることは、ノアは何を成すべきか、何故そのようにしなければならないかを、神は明確にノアに語っておられるということです。神は彼に直接語ることが出来ないのでしょうか? 神はそうしたいと思われないのでしょうか? 映画の【ノア】の偶像神は、多くの点で自然神教のような異教の神で、世界のことに干渉しない一人の創造者でしかないのです。

【ノア】における偶像神は、残酷で悪意に満ち満ちた姿として描かれています。映画でノアがたった一度祈ったのは、まだ生まれていない孫を(もし女の子だったら)殺害する決心をする前です。双子の女の子が生まれた時、ノアは長い剣を一方の赤ちゃんの顔の上に振りかざしました。張り詰めた数秒間の後に、彼は剣を顔から遠ざけ空を見上げて、「出来ません、神に従えません」と言いました。ですから、映画ではノアが自分の孫娘を殺すことを神が望まれたのに、ノアが神のご計画を実行できなかったということになっているのです。

多くのクリスチャンは、この映画は人の憐れみ、裁き、堕落と、そして神のご意志を受けとめることに対するあがきが主題であると主張しました。そのような考えがこの映画の中でも見られますが、それらは非常に歪められているために、聖書に描かれている主題を正確に表してはいないのです。例えば、ノアは彼を攻撃すると脅している人々のキャンプを訪ねて行きます。彼は闇にまぎれて行くのですが、そこで肉体的な虐待、誘拐、肉として食べるための女性の交換(明らかな人食い)やその他の様々な罪の行為を見てしまいます。そこで、ノアは動物の肉を食べている者としての自分自身の姿(彼の分身)を見るのです。彼は自分自身の罪深さを認識し、同様にそれは彼の家族にも向けられます。しかし、これらの罪は聖なる神に対する罪ではないのです。それらの罪は、動物を食べたり、資源の土地を奪い取ったりという形での創造に対する罪なのです。ローマ書1章にそって、映画のノアは、唯一の創造主に反逆することより、被造物である生き物や創造を侵害することのほうをより気にかけているように見えるのです。

悪は善で、善は悪

「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」(イザヤ書5章20節)

この映画のことに思いを巡らしていると、聖書的な道徳を映画がしばしば弾き飛ばしていることが気になり、上記の御言葉が繰り返し心に響いてきました。この映画の監督であり共著者であるダレン・アロノフスキー氏が、自分自身で無神論者であると公言していることをはっきり理解することはとても重要です。この事実だけでは、彼が聖書の歴史に基づいて良質な映画を作成できないということにはなりませんが(特に、もし彼が聖書を信じるクリスチャンたちに助言を求めるならば)、しかし、彼が示そうとしていることに信者たちは用心深くならなければなりません。【ノア】に見られるほとんど全ての道徳的な項目は逆さまになっています。

先に述べたように、正しい人として聖書でも著名なノアは、映画の後半では、人間を地上から拭い去ってしまおうとする精神病者として描かれています。彼は人々のことよりは、植物や動物のことをより大切に思っています。

旧約聖書に描かれている聖なる神とは異なって、この映画の偶像神は執念深く、ノアの身重の義理の娘について彼が嘆願した時にも沈黙したままです。この映画の偶像神はアダムとエバをこの世にもたらすために残酷な進化の過程(適者生存)を用いたことが示されており、アダムが罪を犯す前に、何十億という動物が生きて、死んだということになります(進化についての説明は下に示します)。この進化論を受け容れる取り組み方によって、映画の偶像神は宇宙の偽善者へと変身しています。この偶像神がノアに望んでいることは、人のいない新しい天国で繁殖するように動物たちを全て箱船に乗せて救い出すことなのです。それなのに世界を造り出す過程では、人を造り出す前にこの偶像神は何十億という動物を犠牲にしたのです。それなら、そもそも初めから何故人を造らなければならなかったのでしょう?

映画の「悪党」とは、実際は、最も強い(非常に穏やかな表現)神学的な発言をする人を指しています。トバル・カインはノアの息子ハムを思い起こさせますが、人は神の御姿に造られ、動物たちと地球への支配権を与えられました。もちろん、アロノフスキーはこのことを通常のハリウッドの思考に完全に沿って、極端に解釈しました。トバル・カインは悪い人で、土地の所有権、銃の所有権(発射できる爆発性武器を使う権限)、動物の狩りをする優越性、権利などを行使することを当然と考えていました。また、肉食は最も悪質な罪として映画では描かれているのですが、その肉食をする人として描写されています。洪水後でなければ、人は動物を食べることを許可されていなかったのは事実ですから(創世記9章3節)それ以前に、ノアが肉食をしたとしたら、それは間違いでしょう。映画のノアは、肉食に対して異常な嫌悪感を示していながら、動物を食べようとする人々を見ると、神の御姿に創造されたその人々を殺戮することにどんな問題も感じなかったのです(他の場面に於いて)。

箱船の中でノアが家族に語っている話では、エデンの園で蛇が皮を脱ぎます。エバが迷って善悪の知識の木へと逸れている間に、蛇はアダムを混乱させたということです。この脱ぎ捨てられた蛇の皮が何かの魔術的な御守りになっており、ノアとその先祖たちは前腕部を皮で包んで、子どもたちを祝福したり奇蹟の働きを行ったりしています。ですから、エデンの園の蛇が脱ぎ捨てた皮は良いもので、神は悪いということです。

この映画で最も奇妙に歪められていることの一つは、堕天使が良いヤツであることです。そうです、堕天使(「見張り人」と呼ばれています)は悪魔ではなく、映画では自己犠牲的な英雄なのです。アロノフスキーとハンデルは経外典のエノク書やその他、昔のユダヤ教書物の道徳性を弾き飛ばしました。エノク書では、セムジャザ(Semjaza)という名の天使が200人の天使を引き連れて地球に来て、女性と結婚し、神に反逆し、魔法によって人を堕落させたのです。映画では執念深い偶像神が彼らを園から追放したので、天使たちは人を憐れみ、助けるために善意を以て天を立ち去ったのです。しかし、この映画の残酷な偶像神は彼らを地面に叩き付けました。地球は彼らの光の体をくっつけて多数の武器を備えた巨大な岩(丸い石の凝塊に似ています)に変えてしまいました。ある種の魔法使いであるメトシェラが、彼らを弁護する唯一の人間です。彼は魔法の蛇の皮を使って爆発物を造り、堕天使である巨大岩を殺そうとしている何百もの兵士たちを焼き払おうとさえしました。

映画の中程では、トバル・カインはノアを見つけ出して、ノアがいる土地は自分の物だと宣言します。本当に一人で自分の軍隊に対抗出来ると思うのかと、彼はノアに詰め寄ります。ノアは言います、「私は一人ではない。」 でかした! 圧倒して襲いかかる敵の前で神に依り縋っていることをまさにノアが示すのだと、クリスチャンの観衆は思います。違うのです。対決している間中、積み上がった岩のように微動だにしないで座っていた巨大岩・見張り人は、その瞬間、トバル・カインと軍隊を脅すために立ち上がるのです。言い換えると、ノアは彼を助けるために神に縋らないのです。彼の助けは、堕天使からやってくるのです。

しかし、【ノア】では、さらに悪質です。洪水の始まる時に箱船に乗ろうとして戦っているトバル・カインの激怒した軍隊から、セムジャザ(Semjaza)に引き連れられた堕天使がノアと箱船を保護するのです。「見張り人たち」は軍隊の猛攻撃に遭って、一人また一人と落ちていきます。最初の一人が死ぬと、見張り人は赦しを求めて天に叫び、そして岩のような体が光に姿を変えて空に昇っていきます。この「復活」を見て、他の巨大岩が直ちに宣言します、「彼は創造者のところに還りました」。堕天使が救われることはなく、永遠の罰に定められていることは聖書に極めて明確なのですが(マタイ25章41節,ヘブル書2章16節,Ⅱペテロ2章4節)、アロノフスキーは、彼の映画の英雄たちを天に行かせるのです。このように、またしても、聖書に対する正確性が問われるのです。

映画ではこのように道徳的に転倒しているにも拘わらず、クリスチャンの指導者が【ノア】を推奨するなどということが起こるとは驚異です。アロノフスキーとハンデルがこれらの問題を見逃しているのは、全く信じられないことです。いいえ、映画の台本は、聖書の道徳を覆し、またそれと共に、神の御性格、正義と恵み、堕天使の行き先に聳える永遠の裁きと創造の場における人の居場所等々、旧約聖書の宣言を覆そうとする明確で意図的な企てが含まれているのです。

有神論的進化論

先に述べたように、この映画は創造に対して進化論的見方を推し進めようとしています。箱船の中でノアは家族を集めて「初めに、何もありませんでした。」と話します。それから、私たちは目の前でビッグ・バンを見せられ視覚による「取り扱い」を受けて、そして溶解したボールという星雲仮説を経由して地球が形成され、それが他の物体がぶつかることによって二日目には月が形成されます。それから、大洋に微細な有機体として生命が発生し、その生命体が魚になり、そして、水面近くを泳ぎ始めます。魚はある種の両生類になり、それが陸に這い上がり、そして爬虫類になり、それからやがて齧歯類となって地球にトンネルを造って地中をちょこちょこ走り回ります。その内に、この動物は霊長類へ、そして類人猿が蔓にぶら下がって移動するのを見せられて、最後の蔓から跳躍して飛び降りて木から地上に舞い降ります。そしてスクリーンが明るくなり、光が次第に消えていくと、アダムとエバが光の装いに包まれてスクリーンに現れるのです。

この映画を推奨したクリスチャン指導者たちは、【ノア】には進化的な要素があることを認めました。しかし、この人々はアダムとエバの特別な創造を映画が描写していることを強調します。ですが、これは、兎に角真実ではないのです。この映画は、アダムとエバは進化の鎖において類人猿に直接繋がっていたという強い印象を与えています。神のかたちに人が創造されたということについて、映画は何点かの参考資料を挙げていますが、もし私たちが類人猿から進化したのなら、そのことがどういう意味があるのでしょう? もし、全ての生き物が私たちの先祖の中に含まれているなら、それは動物たちもまた、神のかたちに造られたということでしょうか? さらに、この映画は生き物が最も重要なことであるとしている考えに基づくと、人よりも動物のほうが偉大な形を与えられたように見えるのです。

進化の間違いとそれが旧約聖書と相容れないということを示している何百もの論文と資料をAiGは持っています。実際、聖書は動物のどのような進化も明白に否定しているのです。神は全てを6日間に創造し(創世記1章、出エジプト記20章11節)、それぞれ「その種類にしたがって」動物や植物が造られたのです。言葉を換えると、イヌは常にイヌを、ネコは常にネコを生むのです。この聖書的真実は私たちが今まで観察してきたことと完全に一致します。また、進化の物語において起こったことの順序や、映画に描かれていることは聖書と矛盾するのです(起こったことの順序について、20以上の相違点に関する詳細を記述しているテリー・モルテンソン博士の優れた論文を見て下さい)。

さらに書き続けることも可能です

【ノア】に関してさらに多くの間違いや重要事項がありますが、ここでひとまず止めることにします。メトシェラの異常なほどの大きな力が神から来ているというよりも、非常に神秘的なものとして表現されていることを語る時間はありません。木の葉から作った何かの香りによって箱船に乗っていた動物たちを眠らせたこと、トバル・カインが船を叩き割って漂っている箱船の中へ乗り込んだ後に、眠っている動物を食べたこと(多分このために恐竜が絶滅したのだと説明している?)、輪になった虹が脈打っていること、トカゲ・イヌ、エデンの園から保存されていた魔法の種、などなど。このような特別な点についてさらに詳細に将来取り扱いますので、ウェブに公開する論文を期待して待って下さい。

悪いことを最大限に利用する

【ノア】は、神を冒涜する描写やノアが暗殺者であるという人格に関する表現で満ちています。映画は聖書の真理を危険な方向へ歪めており、聖書が実際に教えていることを正しく理解しないままに映画を見る人に頽廃的な影響を与えます。私たちはこの映画をボイコットするようにと呼びかけることはしませんが、AiGはこの映画を見ることをどなたにも薦められません。しかし、これを見る人もいるだろうことを私たちは知っています。ですから、この映画を見たノンクリスチャンと、クリスチャンは語り合う機会はあるのです。

福音を伝えるためにどのようにこの映画を利用できるでしょうか? 第一に、誰かと知的な議論をするために映画を見る必要はありません。しなければならないたった一つのことは、映画で示されていることについて良い質問をすることであり、それから一緒に聖書を開いて、洪水の出来事に関して本当に旧約聖書が教えていることを示すことです。例えばこのような質問です:ノアに神がさせたいと思われたことを、ノアはどのようにして知ったでしょうか? 映画では、人間はどのように描かれていますか? 映画では、何故世界は洪水で覆われたと描写されているでしょうか? ノアが箱船を建造した目的は何でしょうか? 映画は、あなたには何が変に見えたでしょうか? 映画の登場人物で、あなたが知っている人はいますか、またそれは何故でしょうか?

それに加えて、映画は「クリスチャンを攻撃するようなやり方で神の御言葉と神の御性質を歪めている」と信頼できる人々から聞いたので、あなたは映画を見ないことに決めたと話せるのです。これは確固たる信仰を持つことの真価に対して力強い証言になります。

あなたは他の人々とこのような議論をして、そして聖書を開くのです。聖書の御言葉があなたの権威であることを指摘することに臆しないでください。もし恐れなければ、あなたは事実上、異なった意見に対抗して一つの意見を主張することになるのです。あなたは映画に描かれている神の失敗について語り、ノアについてしっかり話題にして、人よりも動物を重要視することに映画が焦点を合わせていることを指摘することによって、あなたの目標はこの議論を福音に向けることであることを思い起こすのです。映画に示されている罪と正義の主題は・・・歪められていますが・・・、真実の聖書的な罪、正義、そして憐れみの定義を話す機会になるのです。これら全てによって、あなたが話している人々は罪深いこと、神は聖であるので罪を裁かなければならないこと、しかし、一方で神の憐れみを受ける道をご用意しておられることを悟らせて、彼らを助ける道となるのです。

イエス・キリストは地上に来られ、父なる神に徹底的に従順に生きられ、人の身代わりとなって喜んでご自身のいのちを十字架に捧げられ、死に打ち勝って墓から甦られました。私たちが神に対して罪を犯したことにより当然受けるべき罰は、イエスによって支払われました。私たちが悔い改めてイエスを信じる時に、私たちは神の恵みによって救いを受けることが出来るのです。ノアが神の御前に恵みを見つけ、箱船に乗って救われたように、私たちは救いの箱船としてキリストを頼ることが出来るのです。http://www.answersingenesis.org/about/good-news

出ていってこの良い知らせを出来る限りのすべての人に宣べ伝えましょう。

【ノア】を批評したパネルを示しているAiGの特別なウェブ特集を見ることが出来ます。さらにAiGが建造している実寸の、福音的箱船の進行を辿るために、http://arkencounter.com/を訪ねてください。
AiGの特別なウェブ特集: http://www.answersingenesis.org/creation-debate/noah-movie


また、ケン・ハム氏自身のブログに短評をしているので、それも、日本語に翻訳したものをご紹介します。↓

 

http://blogs.answersingenesis.org/blogs/ken-ham/2014/03/28/the-noah-movie-is-disgusting-and-evil-paganism/

AiG代表ケン・ハム氏のブログ(2014年3月28日):短評・・日本語訳

「ノア映画は吐き出したいほど悪意に満ちた、自然崇拝・多神教映画である」

 昨夜、私はハリウッド映画「ノア」を見ました。それは予想していた以上に、遙かに、遙かに悪質なもの、まさしく悪意に満ちたものでした。この映画の監督ダレン・アロノフスキー氏は、「この『ノア』はこれまで制作されたもののうち最も非聖書的なフィルムである」と言ったとメディアに紹介されていますが、まさしくその通りであると彼の言い分に私は賛成します。

この映画は自然崇拝・多神教の極めて悪質なものであると言わなければならないことに嫌気がさすのです。義理の娘の赤ちゃんが女の子だったら、生まれたら直ぐに殺してしまうと言うような暴力的な精神病者としてノアが描かれている悪質な映画を、あなたは本当にご自分の家族に見せたいですか? そして、女の子が二人生まれたら、一方の赤ちゃんの頭上にナイフをかざしておいて、― 最後の瞬間に振り下ろさないで済ますというような血にまみれたノア(創世記7章1節)で、聖書が正しい人と呼んでいる人)として描かれている映画なのです。しかも、その少し後で、赤ちゃんを殺さなかったのは失敗だったとノアは言うのです。このような映画を推薦しておいて、堕胎に反対できるでしょうか? 精神病者ノアは人類を地上の害虫のように見なし、世界中の人々を排除してしまいたいと思うのです。

私は自分が汚れているように感じられ、自分に付いている邪悪なものを何とか洗い落とさなければならないかのような気がします。この映画を見るようにと人々に薦めたクリスチャン指導者がいるということを私は信じることが出来ません。

ノアという名前を聞き大洪水と箱船があったと知り、誰かがそれを用いて作り話をでっちあげて悪質な映画を作り上げたかのようです。何人かの名前以外には、この映画は聖書と何がしかの関係があるとは考えられないのです。例えば、メトシェラは何か魔術を施すことが出来る魔法使いの医者みたいな者として描かれているのです。さらに指摘できることは山とあります。奇怪な堕天使が生きている岩としてノアを助けるというのは、一体何でしょう?

今夜東部時間8時に行われるインターネット・ライブストリーム・「創造討論会」に参加されませんか。一緒に映画を見たAiGの研究者が数名ご一緒しますので、私たちが見聞きしたことを説明したいと思います。(訳者注:即日にこのような自由な討論会を催されたようです。)

この映画を妻が一緒に見なかったことを私は嬉しいと思っています・・もし彼女が見ていたら、激しく動揺しただろうと思いますので。私自身もクリスチャンとして怒りが噴き出しそうです。他の人々がどのように言っているかはさておいて、私はこれらのことを公表しなければならなかったのです。その上これは退屈な映画で、私が今まで見た映画の中で最も退屈で悪質な映画だと思います。

これは私の個人的な見解ですので、「ノア」に関する今晩の「創造論討論会」に是非ご参加下さい。

この映画は「初めに何もなかった」(この言葉は後でも繰り返して言われています)という言葉で始まります。しかしながら、聖書は「初めに神は(創世記1章1節)」と述べているのです。このことによって、実は相違点を総括しているのです。

この記事に目を留めて下さり、祈って下さっていることを感謝します。   ケン


映画「ノア」に関する、AiGの公式の批評と、ケン・ハム氏のブログの感想の日本語訳のWebSiteへの公開を許可して下さったことをAiGにお 礼申し上げます。

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